まだまだ寒い日は続きますが、犬のトップ君を散歩させていると季節の変化を実感します。武蔵野中央公園では1本の河津桜が咲き誇り、白梅、紅梅も美しい花を咲かせています。皆さん、いかがお過ごしのことでしょう。2013年9月以来発行の途絶えていたBTI (ブレイン通信)本当の名前は”BRAIN TRUST INFORMATION”を復活します。

BRAIN では受験も落ち着き、後は国立大学と都立高校の発表を残すのみとなりました。受験生たちの努力が実を結ぶことを祈っています。

異常な光景

さて今年も2月1日にはTVニュースで中学入試の映像が多く映されていました。もう冬の風物詩と言ってもいいでしょう。入試会場に入る緊張を隠せない小学生たち、子ども以上にガチガチにかたまっている親の顔。

まあ、ここまでは当然の様子ではありますが、どうも目に入ってしまう異様な光景が。なにやら鉢巻を締めてたむろしている変な大人たちの姿です。その鉢巻には塾の名前が記され、中には塾名の入ったのぼりなどを立てている輩もいます。もう毎年見ているので、そんな変な大人たちの姿も常識になっていると勘違いしてしまいますが、明らかに異常な光景であり、社会の常識とはかけ離れた光景です。

社会の非常識

現代の子どもたちを取り巻く環境は、私が小僧だった頃とはまったく異なってしまいました。中学や高校の部活には親が世話係りと参加し、顧問を囲んだ宴会では下級生の親が、顧問や上級生の親たちにお酌して回っているという話もネットとかでは飛び交っています。

どうなっているのでしょうか? 特に塾の異常さは、同業者として大変恥ずかしい思いをしています。いや、彼らとは一度も同業者と思ったことはありませんが…。さらに酷いのは、生徒の入室が終わると、試験当日校門前にたむろしている異常な塾関係者を校内の一室に呼び、お茶などをお出しする、なんていう学校もあるわけです。一体誰がいつになったら「こんな社会の非常識はやめようよ」というのでしょうか。本当に恥ずかしい限りです。

藩校誕生

今は「真田丸」ですが、その前のNHK大河ドラマは「花燃ゆ」でした。明治維新の立役者長州藩の藩士吉田松陰の妹の生涯を描いた作品です。山口県、特に日本海側の萩を旅する際に気をつけていただきたいことですが、決して「吉田松陰」と呼び捨ててはいけません。後ろから刀でばっさりやられます。「松蔭先生」とお呼びください。

江戸時代の1669年、岡山藩主池田光政は岡山学校を設立、その後、全国諸藩は、藩の家臣たちの子弟教育を行うことで藩の力を挙げていこうと、続々と藩校を作ります。その裏には、藩の国力を高めいずれ幕府を倒すと力を注いだ藩校も多かったでしょう。有名どころでは、会津藩の日新館、米沢藩の興譲館、水戸藩の弘道館、長州藩の明倫館、佐賀藩の弘道館、熊本藩の藩校時習館、薩摩藩の造士館などがありますが、幕末には医学、化学、物理学、兵学等の西洋の学問まで学ぶことができる事実上の総合大学にまで発展していきます。

しかし、これら藩校はあくまでも武士の子弟が学ぶところであって、庶民、特に農民などは通うことができません。が、やっぱり日本は昔からたいしたものです。寺を中心に、庶民のための学び舎「寺子屋」が出現するわけです。

松下村塾

さてそんな中、叔父の玉木文乃進のあとを受け継ぎ、武士であろうと農民であろうと身分を一切無視した学び舎「松下村塾」を主宰したのが松陰先生でした。

村塾からは、後に明治の日本を担った伊藤博文、山縣有朋、品川弥二郎、山田顕義、野村靖たちや、その明治新政府に対し萩の乱を起こした前原一誠らがいますが、中でも「識の高杉、才の久坂」と称された「双璧」高杉晋作、久坂玄瑞、「松下村塾の四天王」と称されるのは高杉、久坂と吉田稔麿、入江九一、そして寺島忠三郎。彼らは維新を見る前に亡くなってはしまいますが、松陰先生、そして亡くなった彼らの志を継ぎ、明治を切り開いた伊藤博文たち。松下村塾の志は脈々と流れていくのです。

維新の三傑の一人桂小五郎(後の木戸孝允)は村塾出身ではありませんが、長州の藩校明倫館で松陰先生に兵学の教えを受けています。明治の軍神乃木希典は村塾創立者の玉木文乃進の親戚で文乃進から指導を受けていました。靖国神社の中央にある12mを越える高さの銅像は、日本陸軍の祖である大村益次郎ですが、彼は松陰先生を尊敬し、高杉の奇兵隊を指導しました。

なぜ松陰先生はこれほどのすばらしい塾生たち、若者たちを輩出することができたのでしょうか。それは、松陰先生が彼らの「志」を引き出し、自覚させ、行動させたからだと勝手に思っています。

目先のことではありません。新しい日本、未来の日本のために、自分たちは何ができるか、何をしなければいけないか。そういった「志」を各人に求めたのです。だからこそ、まだ当時10代、20代だった若者たちが、日本に維新をもたらすことができたと思っています。→2000年度BRAIN 通信24号参照

引っ越して2年

さて、BRAIN はあと1ヶ月もすれば、三鷹駅徒歩1分の便利なところから、こちらに引っ越してきて2年になります。駅から歩いて10分近く。前の教室の1/3の広さ(狭さ)。落ちぶれたと思う方もいらっしゃるでしょうが、この狭さがBRAIN には一番あっているのではないでしょうか。教室の後ろの方で眠っている生徒はいません。教室に、後ろの方なんてないのです。たまにH君が夢の世界ですが、すぐ後頭部はたかれます。よく目が行き届きます。

松下村塾はもとは8畳の部屋でした。BRAIN なんて3畳ぐらいでいいと思うのですが、それでは生徒も入らないので、今が一番いいです。

要は生徒たちに何を教えるか、何をやってもらいたいかでしょう。そんな気持ちで生徒に接触できるのはこの狭さがちょうどいいのです。もし、勉強だけやって、入試に合格すればいい。それだけなら大手塾に行きなさい。どうせ勉強したことなど、社会人になればあっという間に忘れ去ってしまいます。

私の「志」

私が教えたいことは、そんな忘れ去ってしまうものではありません。「教える」などと偉そうなことを言ってしまいましたが、最も大切なものは、すべてを忘れ去っても最後に残るもの、それなんです。その最後に残るものは、必死で思いをこめて学んだ人間にしか与えられません。本当の「志」を持って走ってきた人間にしか与えられないのです。その最後に残るものが「自信」ではないでしょうか。「自信」を持てる生徒になる。そんな生徒を育てていく助けをしたい。それが私の「志」です。

昨今、無気力な若者、何をやってもしょうがないとか平気で言う若者、恋愛もしたくないなんていう若者が増えているような気がします。彼らは最後に何も残らなかったのでしょう。そういう人間が増えてしまった原因は教育にあったのではないでしょうか。ただ入試にさえ受かればいい。そんな考えで機械的に勉強をやっていたのではないでしょうか。

「志」を持つこと。そういった「志」を持った生徒とともに学ぶ「村」を作ること、そしてその「村」がBRAIN という存在であってほしい。そう思うこの頃です。

BRAIN TRUST INFORMATION  No.135