「100万回生きたねこ」

もう秋も終わりです。そしていよいよ冬ですね~。受験生諸君は、大学センター試験を皮切りに3月まで試験が続きます。しっかりやってくれよ~。なんて思っているこの頃、皆様いかがお過ごしのことでしょう。

佐野洋子って知ってますか?

先日絵本作家、エッセイストであった佐野洋子が亡くなりました。佐野洋子といってもぴんと来ない方もいるかとは思いますが、詩人の谷川俊太郎の元妻だった人と言えばどうです?

谷川俊太郎と言えば、入試問題に使われた自分の作品を著作権だなんだと言って訴訟を起こした人です。言いたいことはわかりますが、作品はとても素晴らしいだけに、私としては読者の裾野を広げることを考えたほうがいいと思います。入試問題を読んで「谷川俊太郎」に興味を持つ若い世代もかなりいると思いますよ。

さて、佐野洋子のことを谷川俊太郎でわからないのなら「100万回生きたねこ」の作者といえばどうです? 「あー、あの猫の…」と思い出す方も多いと思います。

「100万回生きたねこ」との出会い

ある日NHKの教育テレビでこの猫と出会いました。一見雑な猫の絵、とぼけたナレーション。初めは「飼い主のこと嫌いなんだ」とか思いながら気楽に見ていたものの、白い猫と出会ってからは、完全に引き込まれていました。最後は涙涙…。「なんで絵本をテレビを見てこんなに悲しく、感動したんだろう、だって絵本は子供向けだろうに…」。思いがいろいろ交錯しますが、感動は事実でした。

この絵本はBRAIN に絶対必要だと思いすぐ本屋で買ってきたわけです。最後まで涙なしには読めません。いやー、感動感動です。雑っぽく見えた絵は、雑ではなかった。猫の絵は、まさにこのトラ猫の性格を100%描ききっています。是非読んでみましょう…読書のススメその1。

あらすじ…ご存知でしょうが

猫は、戦争好きの王様の猫となり矢があたって死にます。船乗りの猫となり海に落っこちて溺れ死にます。今度はサーカスの手品つかいの猫になって誤ってからだをのこぎりで真っ二つにされて死にます。さらに、どろぼうの猫になって番犬にかまれて死に、お婆さんの猫のときは老衰で死ぬ。小さな女の子の猫のときはおんぶひもが首に絡まって死ぬ。

100万回生まれかわっては、様々な飼い主のもとで死んでゆく。100万人の飼い主は猫の死をとても悲しんでいたが、猫はまったく悲しまない。猫は飼い主のことが大嫌いだった。

ある時、猫は誰の猫でもない自分のことだけが好きな野良猫となっていた。めす猫たちは、お嫁さんになりたくて「さかな」や「ねずみ」などのプレゼントを持ってくる。

「100万回も死んだんだぜ、いまさらおかしくって」と取り合わない猫。でもそんな中、猫を見向きもしない一匹の白い猫を見つける。猫は白い猫の興味をなんとか引こうと宙返りをしたりする。猫は白い猫に恋をしたんです。

そして白い猫や産まれてきたたくさんの子供たちのことを、自分より好きになった猫は、いつまでも白い猫と一緒に生きていたいと思う。しかし、白い猫は年老いてゆき、やがて猫の隣で動かなくなる。

猫は、夜も朝も泣く。100万回泣き、泣きやんだ猫は、白い猫の隣で静かに動かなくなり、それ以後、生き返ることはなかった。

賛否両論!?

こんな感動的な作品でも賛否両論あるわけですよ。否定論をちょっと見てみます。

「普遍的な題材で大人が読んで素敵に感じるかもしれません。しかし子供に読ませるには表現方法が暗すぎです。死にました、なんて表現が何回も出てきてくるのは子供には良くないのでは。」

「この絵本は人気ですよね。でも、子供にはあまりオススメしません。本当に理解できる歳になってから読んで欲しいです。」

「読んでみて、まず印象に残ったのは…。猫は何の脈絡もなく飼い主の事が『嫌い』なんですよね。この『嫌い』と『死にました』が前半は何回も出てくる言葉。後半はモテモテ猫になるけど、自分に興味を持たない美しい猫を好きになる。まるで中・高校生の恋ですね。外見だけで判断する。絵本からいろんなことを吸収する子供にはあまり見せようとは思いませんでした。」

これらはみんな30代のママの意見です。

言葉狩り

「死ぬ」と言う言葉を何回も子供に与えるのは子供に良くないのでは、という意見ですが、最近の風潮でしょうか、言葉に対するタブー視は。つまり「言葉狩り」。良くないと思われる言葉はすべてふたをしてしまう。放送禁止用語なんてその典型じゃないですか。その言葉が差別に当たるから禁止しようなんて、自分が差別しているからそう思うんじゃないですか?

作家の筒井康孝は「タブーが多いほど文化レベルが低い」と書いてます。全くです。政治家なんてその集まりですよね。発言の言葉尻を捉えて「謝罪しろ」「審議には応じない」など。そんな言葉だけに敏感に反応して国政もストップしてしまうなんて、本当にあの政治家というものはどうしようもないバカヤローの集まりですよ(言葉が汚くて失礼、言葉狩り軍団の方々)。

「死」

言葉狩りによくされてしまう「死」というものは、ただの現象ではありますが、「死」の意味は、私たちが最も深く考えるべきことではないのでしょうか?

自分の経験では、小さい頃、夜、突然出てきたクモを殺そうとしたときなどは、「夜クモは殺すもんじゃない」と大人たちに怒られたものです。虫を意味もなく殺したときなんか、その夜「あーとんでもないことしたなー」とかも思ったなー。猫のお尻に爆竹を突っ込んで爆発させたときなどは、「その猫を探して家に連れてくるまでは絶対家に入れない」と凶暴な母親にこっぴどく怒られ、夜中まで家に入れてもらえませんでした(そりゃ当たり前だ)。

志賀直哉の『城の崎にて』は、山手線に轢かれ重傷を負った作者が、城崎温泉に療養に行き、そこで蜂やネズミ、イモリの「死」を通して「死」の意味をとことん考えていく。そして、生と死の境界はきわめて不確実で、今まで考えていたように正反対の位置、つまり作中の言葉で言うと「両極」にあるのではないということに気づいていく。是非読んでみましょう…読書のススメその2。

いつ理解できる歳になるの?

「本当に理解できる歳になってから読んで欲しいです」ってどうです? 単純な疑問、本当に理解できる歳って誰が決めるんですか? 親のあなたなの? それとも誰かさんが「いま『100万回生きたねこ』を読む歳になりました」って教えてくれるんですか?

何ヶ月か前に書きましたが、子供に大切なのは経験や体験なんです。初めは何も感じなくても、歳を重ねていくうちに色々な経験、体験が重なって変わってくるんです。さらに言えば、「変わるまで待つ」ではなく、「変わるように教育していく」のが親の役目ではないですか? 「鳴かぬなら 鳴かせてみよう ほととぎす」これが教育そして躾じゃないですか? ということは秀吉が一番教育家だったのかなー。

「鳴くまで待つ」のはちゃんと人間が育ってからですね。「殺してしまえ」はどうでしょう? 私の尊敬している人間は、高杉晋作、織田信長、ベートーヴェンの3人です。理由は世界を変えたから。世界を変えるには生易しいエネルギーではダメです。菅さん、分かった?

個性なんかクソ喰らえ!!(言葉が汚くて失礼、言葉狩り軍団の方々)

昔のある偉い教育家の言葉です。「教育とは、人を変えることである」。これは感動しましたね。

私は、今よく言われる「個性を育てる」という言葉が大嫌いなんです。言葉を変えれば「わがままに育てる」じゃないですか? 今まで家庭でわがまま放題甘やかされてきた子供たちに、規則や勉強を教え「こうしなければいけない」と、みんなと同じことを同じようにする人間に、変えていく場所が学校でしょう。学校で学ぶべきことは「個性」ではない。「個性」の真逆の「社会性」ですよ。

東大の名誉教授の養老猛は著書『バカの壁』の中で「個性」を「みんながとことんやっても、絶対追いつくことが出来ないもの。それは身体的な飛びぬけた運動能力だけ」と看過されています。是非読んでみましょう…読書のススメその3。

中高生の恋

外見だけで判断するのが「中高生の恋」なんですね。中高生のとき、そういう経験をされてきたのでしょうか、それとも外見が悪くて相手にされなかったので恨んでいるのでしょうか。いいじゃないですか、そういう経験をして大人になるんですから。絵本からいろいろ吸収するということをわかっているなら、どんどん読ませて、色々なことを吸収させればいいのではないですか。

親が「見せようとは思いません」というようなものも、子供はこっそりちゃんと「見て」育っていくものです。わかってないなー。なんか、狭い了見というか、良識の狭さ。

世のため人のため

「絵本」を子供に与える理由は何ですか? そうです、色々なことを吸収させるためです。子供は実体験で経験できることはあまりにも少なすぎる。その経験を広げる一つの方法が「絵本」でしょう。「読書」も「絵本」の延長でしょう。本を読むことで経験を増やしてください。そしてその先にあるものは、深い人間性と強い人間力を身につけることです。そして、幸せに生きること。でも、そのためには周りにいるみんなも幸せにできなきゃいけないんです。

昔、今は亡き凶暴な母親からよく言われた言葉です。マザコンなもので(先月号参照)大抵、凶暴な母親から言われたことは覚えておりまして、その言われたことは「どんなに人間になってもいいけど『世のため人のため』になるような人間になりなさい」でした。結局それが自分の幸せにつながっていくと凶暴な母にはわかっていたんですねー。

自分の事だけが好きであった猫だって、白い猫と自分たちの子供の方を、自分よりもずっとずっと好きになったじゃないですか。自分なんてどうでもいい。白い猫といつまでも一緒に生きていたい。ずっと白い猫のことを好きでいたい。それが猫が初めて味わった「幸せ」であり「愛」だったのでしょう。

何回も言ってますが、自分の事もまともに出来ないのに、周りを幸せにすることなんて出来ますか? BRAIN の生徒諸君も是非、みんなを幸せに出来るような「実力」を身につけてもらいたいと切に思う今日この頃です。

BRAIN TRUST INFORMATION  No.117

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