普遍的なもの

今年の桜は長かったですね~。今まで受験勉強で苦労していた生徒たちもその努力も実り、桜の下で入学式を迎えることができました。本当におめでとうございます。この先、楽しいことも多いと思いますが、やはり、苦労することも多いと思います。是非、いろいろな局面で力を発揮することができるよう頑張ってもらいたいものです。
(そういうわけで2009年度入試結果は こちら)

中学入試に出ます

さて、今年も恒例になりましたが、福島県まで桜を見に行ってまいりました。昨年は、東京から上越新幹線で政令指定都市新潟へ。新潟から羽越本線で江戸時代に西廻り航路・東廻り航路の起点であった山形県酒田へ。酒田から最上川沿いを陸羽西線で山形新幹線の終点山形県新庄へ。新庄から陸羽東線・東北本線とまわり政令指定都市「杜の都」仙台へ。さらに仙台からは仙山線に乗って再び山形県に入り山形へ。そして、山形新幹線に乗って福島へ。こんな具合にあちこちまわって福島までいったわけです。ちなみにこの行程に書いてあった事項や都市名、そして線名まですべてが中学入試には出題されます。高校入試には一部が出ます。大学入試で地理をやっている生徒はこんなこと常識レベルで知らなきゃ完璧落ちます。

一路福島へ

今年は、4月16日木曜夜授業終了後夜11時に、my軽自動車の三菱EKワゴン出発。福島では、数年前までBRAIN で教師をやっていたんだか、BRAIN にただ酒を飲みに来てたんだかわからない「伝説の男」佐野先生が「佐野塾」を開いており、BRAIN 菌を福島県にばらまいてるわけでして、そちらに到着は午前2時30分。ちなみに深夜ETC割引で高速代2500円です。

深夜にもかかわらず、佐野先生は料理まで作って待っていてくれたんです(涙)。毎回恒例「自宅の周りでとった野草大会」です。タラの芽はてんぷらです。絶品でした。ブロッコリーは塩茹でです。よくマヨネーズをつけますが必要ありません。それだけでうまいんです!!! ほうれん草も塩茹で。醤油いりません。酒が進みます。朝5時でおひらき。それにしてもこの野菜たち、すべて植物本来の強さが出てるんですよ!! でも、何でこの福島の野菜たちはうまいんだろう? 東京ではこんなうまい野菜はありません。実は東京でも1軒だけうまいとこがあるんですが内緒。

桜咲く

朝9時半起床。やたら小さくてうまいイチゴを食べコーヒーを飲み出発。このイチゴは1パック150円…。

さて、やっぱり三春の滝桜は最高です。もう何年も続けて見てるのに、やっぱり感動。武蔵野市だって市役所前の桜並木は素晴らしいですが、この滝桜1本の感動はそれを上回るものです。是非見に行きましょう。

ここで何年も通っていて初めて気づいたことがあります。それは、桜は「毎年咲く」ということです。当たり前のことじゃないかと笑われるかもしれませんが、よく考えれば凄いことです。1000年も続けて必ず毎年4月に咲くんですよ。どんなことがあったって毎年咲く、つまり哲学的に言えば「普遍」なんです。

普遍的

よく考えてみると、巨大なこの桜は、雪がつもると雪の重さで枝が折れてしまいます。1000年もこの巨木が生き残ったのには理由があるんです。

理由は簡単、1000年も前から、この滝桜の姿を守り続けた人がいることなんですよ。「普遍」的なことでもそれを守っていかなければならない。それじゃ「普遍」ではないのだろうか? いやいや、桜が毎年咲くのが「普遍」、桜を毎年守る人の行為が「普遍」。すべてあわせて、三春の滝桜は「普遍」なんです。

最近の子供

よく老人たち(?)は「最近の子供は~」「最近の若者は~」と文句を言いますが、これはおかしな話です。私が思うに「子供なんて昔も今もずっと同じ」だということですよ。

子供はわがままで、親の言うことなんか聞かない、悪いことばかりやる。勉強なんて大嫌い。これが当たり前じゃないですか。それが、子供としての「普遍」です。しかし子供はまだ「人間」として「普遍」ではない。その子供を「人間」として「普遍」的な存在にするのが周りの大人の役目であり、それが教育です。

いろいろな勉強を教え、吸収させ、努力をさせて、それが成果となってあらわれることを快感に思い、さらに自分を深めようと勉学に励む。そして、大事なものをつかみ「人間」として成長する。

勉強が性格を悪くする!?

「勉強できても性格が悪ければしょうがないじゃないか」という人もいますが、それは誤った教育がなされた結果です。

「他人を蹴落としてでも自分が上に立つ」という貧困な発想しかない親を含めた教育者が多いことが原因でしょう。特に中学受験ではこの度合いは激しいようで困ります。勉強とは「自分との戦い」であって他との競争ではない。受験合格は合格最低点を取るだけです。

最近の「ゆとり教育」も正しい教育から離れてしまいました。なぜか? 理由は、「子供を人間として『普遍的』な存在に育てる」という教育の本来の姿を忘れて、「いじめが増えたから」とか「学級崩壊してるから」とか言って「子供の負担を減らそう」なんてくだらない方向に進んでしまったからです。

福島の野菜がうまいわけ

なぜ、盆地で夏が暑く、冬はめちゃくちゃ寒い福島の庭で取れる野菜が、うまく、力強いのか。それは、野菜たち自身が、厳しい環境を耐え抜いて芽吹くからです。

翻って子供はどうなのか。前述の通り子供はわがままで、勉強なんか大嫌いが当たり前です。子供が天使なんて、そんなのはせいぜい3歳まで&寝顔を見てるときだけです。そんな子供たちに「負担を減らそう」なんて考えるのがそもそも間違いなんです。

では、この「ゆとり教育」の結果、いじめ問題は減ったんですか? 学級崩壊は減ったんですか? かけらも減りません。むしろ増加しています。結局「ゆとり教育」の結果残ったものは、九九もまともにいえない小中学生や、暗記もできない子供、都道府県の位置も名前も県庁所在地すらいえない子供、さらには授業中に教師の話も聞けない子、席についてることさえできない子、無気力な子…。こんな子供たちです。

老人政治家&官僚たちが子供に残したもの

つまり、子供を守り、人間として成長させる大人が教育の「普遍」性を見失ってしまったことが、老人たちの言う「最近の子供は~」「最近の若者は~」という人間を作ってしまった。しかも、そういう人間を作ってしまったのは、そう言っている老人たち自身であるということをわかっていないんです。

滝桜を守ってきた人は、滝桜が立派に美しい花を咲かせることだけを考えてきた。しかし、教育する人たちは、行き当たりばったりの場当たり的なことばかりを考えてきた。

今こそ、私たち大人は、ブレることなく子供たちが立派に成長するように、そして「人間」として「普遍」的な存在に子供たちを育てることだけを考えて教育にあたっていきましょう。それが、私たち大人の責務であると私は思います。

BRAIN TRUST INFORMATION  No.98

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